1.猫と教養

 「我輩は猫である」というあまり小説らしくない小説を知らない日本人は多くないと思われるが、今日、それを読んだ人もそれほど多くないようである。私が初めてこの本に接したのは中学生時代、当時の風潮として”大人になるまでに当然目にしておくべき古典”を読むことは仲間内のある種の義務であったことから、書店の棚で文庫本を見付け、読んだのが最初だったが、正直なところ、決して面白いものではなかった記憶がある。「坊ちゃん」のほうが、若い新米教師を主人公とした青春小説として面白く読めた記憶がある。

 しかし、成人後、ふとした機会に再度手にした「猫」には、思わず声を出して笑ってしまう文章がたくさんあって、その価値を再認識させられることになったのである。さらに、高齢者と呼ばれる年代になってからは、眠気が来るまでの間に手にする本としてベッドに持ち込み、改めて新鮮な愉しみを味わうことになった。この時は、処々に箴言ともいえる文章を発見し、それが決して今日に通用しないものでないことに気付き、漱石(実は、彼は49年の人生であったので、今の私から見るとずいぶん若い)の見識に驚かされたのである。「坊ちゃん」にも年齢を重ねてからの読み方もあるのだろうが、不幸にして、それを試したことはない。 

 「猫」に限らず、漱石の小説を読むとき、我々は該博な「教養」を求められていることにある種の圧迫感すら感じる。「草枕」の冒頭の有名な部分を越えて読み進むために、私はそこに出てくる多くの人名などを敢えて無視しなければとても前に進めなかった。その一人一人の事績を確認することは、確かに著者の意図をきちんと受け取るためには必要なことなのだろうが、そんなことをしていては、「草枕」を小説として読むことは殆ど不可能になるのである。

 私は大学教育に約40年携わったが、最初に所属した部局は教養部だった。昭和22年に発足した新制大学は教養課程と専門課程の2本立ての課程から構成されていた。旧制帝国大学はそもそも、“社会で活躍する専門家養成を担うことができる人材”を養成するために設けられたものであり、そこでの教育がもっぱら専門教育であるのは当然のことである。しかも、旧制大学の専門教育は、専門分野の学問を伝授するものとして設計されており、旧制中学卒業生が持つ学習成果を踏まえて設計された教育課程と言えるものではなかったことから、専門教育を受けるために必要な知識・技能を涵養するために、旧制高校(あるいは予科)という制度が用意されたのは必然的なことだったのである。

 戦後、旧制大学から新制大学に移行する際に、旧制高校の考え方とアメリカのリベラルアーツカレッジの考え方を折衷したものとして教養課程という制度が作られた。私は、その教養課程の一般教育科目の生物学を担当する教養部教員として、大学教員としてのキャリアをスタートした。漱石の小説をきちんと読むために必要な知識と技能を「漱石のための教養」と呼ぶとすると、教育制度設計上からは、教養課程で養おうとしていたものは「専門教育のための教養」とでもいうべきものであったはずである。教養という言葉の多義性から、また、専門課程の基礎として本当に必要なものは何かという点の議論が十分行われなかった結果として、「教養課程」が「専門課程に対置された教養課程」と理解されるようになったのは、予期せぬ不幸と言わざるを得ない。 

 今から、四半世紀くらい前に、新制大学の規模拡大とそれに伴う人材育成目的の多様化圧力の下で、教養課程と専門課程の区分が廃止され、全国の教養部という組織は廃止された。その際に、従来型の専門教育でもなく一般教育でもない4年間の学部教育を通した4年間の“有機的一貫教育”を創造することが求められたのであるが、組織として廃止されたものが教養部であったことから、ユニバーサル化した大学の多様な専門教育についての概念整理が不十分なまま、専門学部教育そのものの改革が進まず、大学が、方向性のはっきりしない”改革”の波の中で浮動しつづけることとなった。

 漱石の小説を十分に味わう(専門教育を受ける)ために必要な予備知識という観点で考えると、「教養」(予備知識・能力)は必要に違いない。また、そもそも多義的な意味を持つ「教養」の重要性を否定する勇気を持つことは難しいし、成金さんと流れ者が跋扈する昨今の社会情勢を見ると、いろいろな言葉で表現されるにせよ、誰もが教養の必要性を強調したくなるだろう。

 漱石にとってはおそらく「教養」というような感覚はなかったに違いない。漱石に自らの教養とは?という問いを発しても答えはなかっただろうが、敢えて言えば、伝統の漢籍の素養を答えたかもしれない。彼は、当然のことのように漢詩を作り、その素養に留学経験を含め膨らませたものを踏まえて、淡々と様々なことを語ったのだろうと思われるが、そこで、読み手が、自らの教養が問われるように感じるのは興味深いことである。