【2】 著者の飯島 魁という人


 

 飯島魁という人のことは、本当はよく知らない。不勉強な私は、飯島の論文を直接読む経験も無かったし、ここで飯島のことを書くにあたって、その事績をきちんと調べることもしていない。ただ、その名前は私が駆け出しの動物学研究者になったころから知っていたような気がする。
 手元に、東京大学理学部動物学教室の卒業生名簿(平成7年3月刊行)があるが、飯島魁の名前は明治14年1881年)の最初の卒業生として記されている。同じ時に、岩川友太郎、佐々木忠次郎の名前が挙げられている。岩川友太郎はその後東京高等師範、女子師範で教鞭を執り、日本の貝類の分類の基礎を築いたとされている。また、佐々木忠次郎は東京大学農学部教授として、日本の蚕学の開拓者とされる。いずれにせよ、我が国で最初に動物学の勉強を始めた人の一人である。
 卒業生名簿の最初のページには歴代教授がリストされており、その初代教授がモースである。ちなみに、モースの後、第2代教授がホイットマン、第3代がアメリカ・ヨーロッパで学んで帰国した箕作佳吉で、第4代教授として飯島の名が記されている。日本で動物学を学び始めて、教授となった最初の人物ということになる。
 

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  初代教授モースの名を私が初めて知ったのは、動物学者というより、大森貝塚の発見者としてである。小学生の頃、大田区に住んでいた私は、普段、京浜東北線大森駅で乗り降りしていたが、大森駅を発した上り電車の左側に、「大森貝塚」の所在を示す大きな石碑が2つあるのを見ていた。そして、それが日本で始めて発見された貝塚である大森貝塚の所在を示す石であり、それを発見したのがお雇い外人の一人であったモースだったことを知ったのは、もしかしたら小学校の郷土の歴史を知る授業の中だったのかもしれない。その当時、将来、自分が動物学を学ぶことになることは全く想定しておらず、線路際の崖に貝殻が露出していることに気付いたモースという人が日本で初めての貝塚を見付けたという話が頭に刻まれただけだった。
 モースは腕足類(シャミセンガイ)の調査で来日したという。今でも、有明海では腕足類が比較的豊富に収穫でき、「女冠者」と呼ばれて食用に供されているが、当時は東京湾相模湾でも豊富に見られたらしい。その調査を目的に日本に来たモースが、動物学教室の初代の教授を引き受けることになったが、彼が、文化面を含めて極めて幅広い関心を持つ人物であったこと、また、当時はまだまだ定説とは言い難かった進化論を広めたこと、そして、比較解剖を中心として実地に学ぶ動物学を原点に据えたことを見ると、彼が我が国の動物学の創始者となったことは、幸いなことだったのかもしれない。

 飯島は、1861年の生まれ、1877年に来日したモースに1878年から師事し、1879年からは第2代教授ホイットマンの指導を受けて1881年理学部生物学科を卒業している。ホイットマンの指導下でヒルの発生の研究を行ったとされるが、卒業後、生物学科の准助教授となった。動物学教室の第1期生は飯島を含め3名であった。佐々木忠次郎は農学校(後に帝国大学農科大学教授)に、岩川友太郎は東京師範学校教諭、第2期生の石川千代松は1882年に動物学科助教授となっている。1982年にアメリカから帰ってきた箕作佳吉が第3代教授になるが、飯島は1882年~85年ドイツのロイカルトの下に留学し、帰国後1886年に弱冠25歳で第4代教授となり、箕作とともに文字通り我が国の動物学を構築した。留学先では、プラナリアの構造と発生の研究を行い、学位を得ているが、その後、寄生生物(吸虫と条虫)、海綿、環形動物ヒル)、カタツムリ、さらに鳥類などの研究に業績を残したとある。

 私が「イイジマ」の名を知ったのは、おそらくは、毒を持つことで有名なイイジマフクロウニからかもしれない。箕作、飯島の尽力で三崎に設置された神奈川県三崎市油壺の東京大学臨海実験所で、何となく柔らかそうなそのウニの姿を不思議なものとして眺めた記憶がある。
 実は、私は、この大先輩を「イイジマサキガケ」という名前で記憶していた。動物學提要に記されている英文の著者名はIsaoであり、多くの書物でも当然のことながら「いさお」である。なぜ、私がこの先輩の名前を「さきがけ」と誤って記憶したのかは分からないが、その立ち位置を考えると、さきがけ=先駆けという呼び方は極めて相応しいもののように思える。