7.如意観によりて如意法を信じる

 大空は万物を覆うため、大地は万物を載せるために出来ている。<略>

 この大地大空を製造するために彼ら人類はどのくらいの労力を費やしているかというと尺寸の手伝いもしておらぬではないか。自分が製造しておらぬ物を自分の所有と極める法はなかろう。自分の所有と極めても差し支えはないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。<略>

 もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するのなら我らが呼吸する空気を一尺立方に割って切り売りしても良い訳である。空気の切り売りが出来ず空の縄張りが不当なら地面の私有も不合理ではないか。如是観によりて如是法を信じている吾輩はそれだからどこへでも這入っていく。

 

 漱石原始共産制を主張しているわけではなさそうである。この空気の切り売りが出来ないことを根拠に土地の私有の不合理を主張するのは、言うまでもなく一種の論理ゲーム。書いているご本人がそれを心から信奉している訳ではなさそうである。さらに大地大空の製造に人類がどれほど寄与したのかを問うあたりは、人間に対する猫の論理の代弁と言えなくもない。それらの理屈を適当に楽しむくらいがちょうど良いのだろう。 

 「如是観によりて如是法を信じる」というのはなかなか難しい。文庫本の注の助けを借りて解釈すると、”このごとき見地から導かれるこのごとき律法を信じる”というような意味になるらしい。自ら立てた論理に基づいて自ら遵守する律法を決めて行動するとなると、当然、他の律法とぶつかる。したがって、吾輩は、自らの如意法を押し通すのではなく、「強勢は権利なりとの格言の存在」もわきまえてつつ、理はこちらにあるが権力は向こうにあるという場合には、権力の目を掠めて我理を貫くという論理の下、天秤棒を食らうことは避け、堂々と入るのではなく”忍び込む”ことを選ぶのである。

  「如是観によりて如是法を信じて」この世を生きていると自ら信じることが出来れば、ずいぶんと心穏やかに生きて行けそうである。ただ、他との関係の中で、己の如是法を「強勢は権利なり」で押し通すと、他の如是法との葛藤の結果を受け入れざるを得ないことになる。如是法を共有していても、共有するが故に厳しい諍いが起こるのである。結果、皆が平和に過ごしていくのは難しくなる。世間のしがらみの中で世知を働かして生きていくことの必然性という「吾輩」が至った境地に共感するのである。