8.漱石と文学博士

  寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるから可笑しいじゃないか。・・・<略>・・・こればかりは迷亭先生自賛の如く先ず先ず近来の珍報である。啻に珍報のみならず、嬉しい快い珍報である。・・・<略>・・・ともかく寒月の博士になるのは結構である。自分のように出来損ないの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで白木のまま燻っていても遺憾はないが、これは旨く仕上がったと思う彫刻には1日も早く箔を塗ってやりたい。 

 

 漱石が文学博士授与を辞退したのは有名な話である。ことが起こったのは、猫が書かれてから5~6年後。今日の博士号は大学が授与するものだが、当時、学位授与権は国にあった。博士には2種類あり、大学の推薦で授与する「博士」と、博士号を持つ人の推薦による「大博士」があった。漱石への授与の話があったのは後者であるが、その時には大博士という名称はなくなっており、「文学博士」の授与であった。新聞で自分に博士を授与されることが報じられたのをみた漱石は、明確に辞退を申し出たという。その理由は、以下の通りである。

「小生は今日迄ただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。」

 しかし、その後、発令済のものを取り消すことは出来ない文部省と拒否する夏目家の間を学位記は2往復し、最終的にはうやむやになったという。

 

 我が国の学位制度は、明治20年に学位令が制定され、文部大臣が授与するものとして始まったが、昭和28年に学位規則の改正が行われて、学位授与権は大学院を置く大学となった。ただし、学位の種類(理学博士とか文学博士という名称)は規則で定められており、私が40数年間に与えられた学位記には、理学系研究科長が所定の単位の取得と最終試験合格を保証し、学長が「理学博士」を認めるという形式であった。

 その後、平成3年に学位規則改正が行われ、「学士」が学位と認められるとともに、博士については、種類別を廃止、学位名称としては「博士」一本で、括弧書きで専門分野を示すこととなった。その後、この括弧書きの中身の暴走が始まっているのである。

 平成3年の改正は、学位制度の歴史を考えると、学位の本質にかかわるずいぶんと大きな変革である。原則として、学術的業績を評価して授与するものであった学位が、大学(院)卒業者の人材証明になった、そして、現在、教育機関としての大学に対して、学位の質保証責任が厳しく問われるようになったのである。学士の学位化も学位の意味の変化を前提として可能になったのである。この改正は高等教育の規模拡大に伴う制度改正の一つとして行われたことであったが、多くの大学関係者を含め、一般には、博士の前についていた名称が括弧の中に入ったくらいのこととしか受け取られなかった。そもそも高等教育の質的変化がじわじわ進行したこともあって、その趣旨は今日に至っても共有認識となっているとは言えない。「博士」の変質への大学関係者の理解が進まないことは、近年、我が国で若手研究者育成が旨く行かない大きな原因に繋がっている。 

 猫は、漱石が博士号そのものを拒否していた訳ではないことを教えてくれる。自らの生きる姿勢と「文学博士」授与との間の乖離を主張し、さらに、そこへの「国憲」の介入を拒否しているのである。「夏目なにがしとして暮らしていきたい」という漱石の言葉は、森鴎外の遺言(・・・死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何ナル官憲威力ト雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス 余ハ石見人 森 林太郎トシテ死セント欲ス・・・)に通じるものがある。

 漱石は、生前にその姿勢を貫こうとしたが、鴎外は、生涯を軍の医務官として官に捧げた後に、死して本来に戻ることに拘ったのかもしれない。ここまで考えた時、雑司が谷霊園随一とも大きさの漱石の墓に参った時感じた違和感を思い出した。笑った顔を写真に残すことを避けた漱石が、大仰な墓石の下で苦笑しているくらいなら良いのだが。

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7.如意観によりて如意法を信じる

 大空は万物を覆うため、大地は万物を載せるために出来ている。<略>

 この大地大空を製造するために彼ら人類はどのくらいの労力を費やしているかというと尺寸の手伝いもしておらぬではないか。自分が製造しておらぬ物を自分の所有と極める法はなかろう。自分の所有と極めても差し支えはないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。<略>

 もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するのなら我らが呼吸する空気を一尺立方に割って切り売りしても良い訳である。空気の切り売りが出来ず空の縄張りが不当なら地面の私有も不合理ではないか。如是観によりて如是法を信じている吾輩はそれだからどこへでも這入っていく。

 

 漱石原始共産制を主張しているわけではなさそうである。この空気の切り売りが出来ないことを根拠に土地の私有の不合理を主張するのは、言うまでもなく一種の論理ゲーム。書いているご本人がそれを心から信奉している訳ではなさそうである。さらに大地大空の製造に人類がどれほど寄与したのかを問うあたりは、人間に対する猫の論理の代弁と言えなくもない。それらの理屈を適当に楽しむくらいがちょうど良いのだろう。 

 「如是観によりて如是法を信じる」というのはなかなか難しい。文庫本の注の助けを借りて解釈すると、”このごとき見地から導かれるこのごとき律法を信じる”というような意味になるらしい。自ら立てた論理に基づいて自ら遵守する律法を決めて行動するとなると、当然、他の律法とぶつかる。したがって、吾輩は、自らの如意法を押し通すのではなく、「強勢は権利なりとの格言の存在」もわきまえてつつ、理はこちらにあるが権力は向こうにあるという場合には、権力の目を掠めて我理を貫くという論理の下、天秤棒を食らうことは避け、堂々と入るのではなく”忍び込む”ことを選ぶのである。

  「如是観によりて如是法を信じて」この世を生きていると自ら信じることが出来れば、ずいぶんと心穏やかに生きて行けそうである。ただ、他との関係の中で、己の如是法を「強勢は権利なり」で押し通すと、他の如是法との葛藤の結果を受け入れざるを得ないことになる。如是法を共有していても、共有するが故に厳しい諍いが起こるのである。結果、皆が平和に過ごしていくのは難しくなる。世間のしがらみの中で世知を働かして生きていくことの必然性という「吾輩」が至った境地に共感するのである。

6.ウィルヒョウとワイズマン(続き)

 何故、漱石がこの2人の科学者の名前に言及したのかが気になっていることは、前項で述べた。漱石がこの2人についてどのような情報を持っていて、どういう理由でこの2名を選択したか?という疑問であるが、私がこの点に拘るのは、私にはあまりにも的確な選択に思えるからである。 

  そんなことを考えていたときに、漱石はどのような本を読んでいたかを調べることが手がかりになるはずだという、極めて当たり前のことにふと気がついた。漱石については、微に入り細に入りいろいろ保存され、調べられているだろうことは容易に想像できる。そこで、Webで調べてみると、「漱石山房蔵書」が東北大学付属図書館に収蔵され、蔵書のリストがWebで公開されていることが分かった。洋書の蔵書リストの中にWeismannの主著とも言える”The germ-plasm”の名前を見付けたとき、私は心が熱くなるのを感じた。リストには、当然のことながら、Darwinの主要な著書であるThe Origin of Species とThe descent of Man, and Selection in Relation to Sex.も含まれていたが、その他に、以下の関係書籍が確認出来た。

     “Charles Darwin”  Allen G.著

     ”The Science of Life”: an Outline of the History of Biology and Recent Advances” 

     “The Study of Animal Life”  Thompson J. A.著  

     “The Evolution of Sex”  Geddes P., and Thompson J. A.著  

     “Education and Heredity”  Guyau J. M.著    

 書名で検索を試みたところ、これらの書は、Internet Archives というネット図書館のようなシステムからPDFファイルが入手可能であることに加え、The germ-plasmとAllen著Charles Darwinは写真製版の復刻版が現在でも販売されていることが分かり、早速入手した。漱石山房蔵書の生物学関連書籍が現在でも入手可能であることは、ある意味驚くべきことに思えた。

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 実は、蔵書リストには、漱石による傍線や書込の有無も記録されている。漱石蔵書に付された、漱石の傍線と書込を確認することで、漱石の理解の筋を辿ることが出来るのではと思い、早速仙台へ出掛けることを考えた。事前に東北大学附属図書館に問い合わせたところ、現在は、コロナウィルス対策のため、学外者の入館は出来ないことを知らされた。ただ、図書館の担当者は、書込の一部が、「漱石全集」の第27巻別冊下に収録されていること、そこに、The germ-plasmへの書込を見ることができることを知らせてくれるとともに、参考に、漱石全集の当該部分のコピーを送ってくれた。それは、PREFACEで、Weismannが遺伝の仕組みに関する諸説の概要を紹介し、それに加えて、In themselves, such theory can hardly be looked upon as suggestive, for if once the assumed principle is accepted, all the phenomena are thereby explained, and the matter is open to no further doubt.と述べているところで、漱石はそこに傍線を付して、「然り〜」と書き込んでいるという。漱石の知性の在処が窺われるのである。


 漱石全集に収録されているのは書き込みの一部であり、その全貌は本物を見るしかない。しかし、今、それは叶わない。マイクロフィルム化されているものがWeb公開されていれば有り難いのであるがそうなっていない以上、現在可能なのは、図書館間相互利用サービスでプリントを手に入れることになる。さすがに本の全ページのプリントをお願いすることは、コストを含めて躊躇われた。そこで、せめての手がかりを求めて、上記の本の表紙と目次のプリントを依頼することとした。それに加え、上記の本の索引を検索、WeismannとVirchowの名前が掲載されていることが確認出来た、Thompson著のThe Science of Lifeで遺伝を扱っている章のプリントを依頼した。 

 

 プリントは数日で送られてきて、漱石全集収録の書込は確認出来た。f:id:shamaguc:20200819113346p:plain

 目次に漱石の関心の所在を示す傍線などがあることを期待したのであるが、その期待は外れた。しかし、Thompsonの本で、Weismannの名前への下線と、その主張を纏めた部分への傍線を発見したときは、まさに予想的中の思いだった。さらに、傍線を付した

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部分の次のページにはWeismannの説に対してVirchowが異論を唱えていることも記されていた。まさに、その部分が、「猫」のウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を斟酌して考えてみますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。」漱石が記した内容に符合したのである。 

 特段、何か確かな筋を追うことができたわけではない。漱石の思考の跡を辿ることが出来たのだと高言する勇気はない。ただ、動物学を学び、しかもその経緯の中でWeissmannに関心を持ってきた私には、「猫」で漱石がWeismannに言及していることは、私の漱石に対する勝手な連帯感を育んでくれていた。その意味で、Thompsonの本へ付した漱石の傍線が与えてくれた、「何故漱石が「猫」でWeismann に言及したのか?」という疑問についての納得感は、私にとって意外に大きな喜びだった。

5.ウィルヒョウとワイスマン

「・・・・以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を斟酌して考えてみますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪して起る心意的状況は、ととい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。」 

 

 これは、苦沙弥氏宅の近所に住む”実業家”の金田氏の娘と寒月くんとの間に縁談が持ち上がっている事に関連して、そもそも実業家というものに好感を持っていない苦沙弥氏と迷亭氏が、縁談に反対の論陣を張っている部分である。金田夫人の鼻がアンバランスなほど大きいことから、その娘の鼻も”潜伏期”を経て、咄嗟の間に膨張するかもしれないので、断念した方が良いという主張を展開している。

 ここでは、「遺伝の事実」と、さらに後天的形質は遺伝しないという「有力なる説」の存在を前提として、論が立てられているのであるが、その説の代表者として挙げられているのがウィルヒョウとワイスマンである。今日の知識を踏まえると、ここで名前が出てくるのは、ダーウィン、ハクスレーあるいは、1900年に再発見されたメンデルという名前になりそうなところであるが、私は、この論理の中で両氏を引用することが極めて適切に感じられるのである。それで、どのようにして、漱石がこの両人を知ったのかが、実はずっと気になっているのである。 

 ウィルヒョウは19世紀半ば頃に活躍した細胞病理学者で、病気が細胞の異常に起因することを主張した人とされる。「全ての細胞細胞から生じる(Omnis Cellula e Cellula)」は彼が述べたとされる有名なフレーズであるが、血液循環の原理で有名な16世紀の解剖学者ハーヴェーの「全ての動物は卵から生じる(Omne vivum ex ovo)」を踏まえたものとされる。生物を構成する基本単位が細胞であるという細胞説は、19世紀初め、顕微鏡観察から動植物の組織が細胞を積み重ねて作られていることに気づいた動植物学者に始まるが、細胞病理学は生き物の構造だけではなく、機能も個々の細胞により支えられているという機能面での細胞説の定式化に貢献したのである。

 ワイスマンは19世紀末に活躍した発生学・遺伝学者で、獲得形質が遺伝しないことを明確に主張したとされる人である。彼は、動物のからだを構成する細胞は生殖細胞と体細胞に分けて考えられること、そのうち生殖細胞だけが次世代の個体に貢献するものであり、体細胞は個体の様々な構造を作るが、その個体が寿命を終えるときに全て消滅すること、そして、生殖細胞と体細胞は発生過程の初期段階で別系統の細胞として分化し、体細胞からは決して生殖細胞は作られない、したがって後天的に体細胞に起こった獲得変異が遺伝することはあり得ないという論理を主張したとされる。生殖細胞により世代が連綿と繋がっている状況をThe Germ-plasm(生殖質)と呼んだことから、彼の考え方は「生殖質連続説」と呼ばれている。今日このような説明は古くさく見えるかもしれないが、ワイスマンの考え方は、当然Omnis Cellula e Cellulaにつながっており、ある意味、細胞説はワイスマンにより完成したものと私は思っている。 

 今、細胞説にことさら言及する人は少ない。しかし、今日の生命科学が遺伝子(ゲノム)機能に基づいて生き物の生き様を説明しようとしているとすると、遺伝子が個々の細胞の(核の)中に存在していることを踏まえ、ゲノム科学の根っ子を細胞説が支えていることの意識は意外に重要であると私は思っている。 

 今日、科学的な意味で進化を議論する際には、当然のことながら遺伝子を踏まえることになる。したがって、その根幹には細胞説がある事になる。「後天性は遺伝するものにあらず」という説の根拠としてワイスマンとウィルヒョウに言及している漱石が、当時の進化議論が細胞説に基礎をおいていることを理解していたとすると、その見識には感服せざるを得ない。 

 私は、生物学の授業で、「「猫」を読んだことがある人、手を上げてみて」と学生に聞いていた時期がある。学問区分に囚われずものを考えるためにこそ学問があるという観点で、細胞説を我が身に引きつけて考えてみるよすがになるかなと思ったのである。四半世紀くらい前は、それでも数%の学生が控えめに手を挙げてくれていたが、その後は皆無になった。学生諸氏にとって、「猫」は文学史上の「古典」に成り果てている事が分かって、10年余前からは、その問いを発することはやめることとした。

4.62才で生きているのは丈夫な人!?

「(二弦琴の)御師匠さんはあれで六十二よ。ずいぶん丈夫だわね。」

六十二で生きているくらいだから丈夫といわねばなるまい。

 

 WEB(https://www.mizuho-ir.co.jp/publication/report/2019/images/mhir18_life01.gif) が教えてくれる明治大正昭和(戦前)の日本人の平均寿命(0歳児の余命)は、ずっと横這い、43歳程度で推移しているという。上昇に転じるのは戦後のことであり、そのことは、我が国に限らず世界的なもののようである。もちろん、寿命の短さには高い乳幼児死亡率が反映されているのであり、多少、当時の人たちの自己認識より過小になっているのだろうと思われる。

これを書いた著者は、自分が49歳でこの世を去ることになるとは知る由もなく、また、実際に当時の平均寿命に近づきつつあったことをどのように感じていたのだろうか。このように記していることは、やはり、六十二才のお師匠さんを「ずいぶん丈夫」な人言っているのは、当時の素直な年齢感覚なのだろう。

 であるとすると、69歳で生きていて、無意味な文章を人目に曝しながら時間を過ごしている我が身の情けなさが身に浸みる。

3.4つの真理

第1の真理                                      得がたき機会は凡ての動物をして、好まざる事をも敢えてせしむ。

第2の真理                                    凡ての動物は直感的に事物の適不適を予知す。

第3の真理                                    危うきに臨めば平常なし能わざる所のものをなし能う。これを天佑という。

第4の真理                                    凡ての安楽は困苦を通過せざるべからず。

 

 以上の4つの真理は、台所に残された雑煮を見たことに始まる一連の騒動の中で、「吾輩」が感得し、逢着し、驀地に現前し、経験したものである。

 さして食べたいわけではない雑煮に歯を着けてみようと思ったのは、吾輩が自由に扱える雑煮に出会う機会は希であるという事によるというのが第1の真理。餅は噛み切れず、噛めば噛むほど口が重くなることを実際に経験する前、餅に歯が接した瞬間に餅は魔物だと予知したのが第2の真理。歯から餅を引き離すために前足を使うことになり、平常なし得なかった後足2本で立つことが出来たことにより、吾輩は第3の真理に辿り着いた。歯にくっついた餅を引きはがしてもらうときの激痛を経て魔物から逃れ得たことで体得したのが第4の真理である。 

 敢えて野暮な説明を加えると、第1の真理は希少な儲け話に引っかかる人の心理、第2は、剣道で、竹刀を構え向き合った瞬間に、相手が自分のかなう相手でないことに気付くようなもの。始める前予知ではなく、始めた瞬間の予知であることが重要な点である。第3の真理は、大和魂への期待や、神風への確信にも繋がるようにも見えるが、吾輩にとってその天佑が何事も解決しなかったところが胆なのかもしれない。困苦の後にいつも「安楽」がもたらされるわけではないが、第4の真理は、少なくとも窮地にある困難に耐える呪文にはなるだろう。4つの真理が、必ずしも処世訓になっていないところが漱石なのかもしれない。 

 残されている漱石の写真には笑顔のものは殆どないと言われる。このような“真理”を楽しみながら書き連ねるときの漱石の顔を想像したくなる。

2.アンドレア・デル・サルト

「昔し、伊太利の大家アンドレア・デル・サルトが言ったことがある。画をかくなら何でも自然そのものを写せ。天に星辰あり。地に露花あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。地に金魚あり。古木の寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」

 

 無聊を埋めるために画を描き始めた苦沙弥氏に迷亭が言った言葉である。アンドレア・デル・サルトという画家であるが、万人が知っている名前ではない。当然、出鱈目の名前だろうと思う私に、今日の”百科事典”かもしれないWikipediaが、それが15世紀のイタリアの画家であることを教えてくれた。名前の意味は「仕立屋のアンドレア」という意味で、画家が通称で呼ばれることは当時として当然のことであったという説明があった。画家の名前は迷亭の出任せかと思っていたので、実在する名前であることに驚いたのである。 

 ネット検索はさらに親切で、南伸坊氏も私と同じようにネット検索でアンドレア・デル・サルトが実在の画家であること発見して驚いたことを書いている。また、この画家と漱石を美術論の立場から論じた先人の論文があることも教えてくれるのである。が、数多画家がいる中で、この画家のことを漱石が知っていたこと、そして何故、敢えてここでこの画家を持ち出したかは気になるところである。

 その言葉の内容は、漱石の親しい友人であった子規の主張を思わせる。この画家がルネッサンスからマニエリスムへの移行期に活躍したことと、俳句、短歌の革新の中での子規が主張した「写生」が似た状況として理解できるのかは、美術史や文学史に疎い私が判断できるところではない。マニエリスムが今日否定的な意味で使われる「マンネリ」の語源であるとしたら、子規とアンドレアの位置づけに共通点があるのかどうかは、やや疑問になってしまうが。