【1】 私の手許の「動物學提要」

 今日、「動物学提要」という本を知っている人はどれくらいいるのだろうか。大正年代に飯島勲氏により著された動物学の教科書である。今からおおよそ100年前の動物学の教科書を眺めることにどれほどの意味があるのか、今、生物学を学ぶ人たちはもはや殆ど無用のものと思われるに違いない。ただ、私が動物学を学び始めて早くも半世紀近く経過したが、その間に動物学関係の双書の類いが何度か、分担執筆、分冊の形で出版されているものの、一人の人が書いた「動物学」の本格的な教科書に出会った覚えはない。学問の拡大と分岐が進んだ今日、分野別に本が執筆されることは当然の趨勢であるが、人生の多くの部分を動物学に関わって過ごしてきた我が身を振り返る時、過去に動物学と題した大部の本を一人の碩学が書き上げていることの意味を振り返ってみたいという思いが、偶然の機会から私の書棚に収納されていたこの本を取り出させたのである。

 私の手元にある「動物学提要」、随分と草臥れており、補修したテープも朽ちて、縦横の繊維のみとなっている。その本は、新潟大学教養部から理学部を通しての私の先輩教員が、若い頃、神田の古本屋街で見つけて購入されたものである。教授室の書棚にそれを見つけた私は、素朴な好奇心から拝借し、その後、その先生の退官時に結局いただくことになった。 

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 奥付の裏ページの書き込みによると、この本の持ち主は大正7年(1918年)に諫早農学校を卒業し、大正9年1920年)に現在の長崎県諫早市にある喜々津小学校の若い教員(恐らくは代用教員)だったと思われる。その人が、中学校教員検定試験(植物科)の受験勉強のために購入したことが記されている。この動物学提要は1920年発行の4版であるが、初版は1918年に刊行されたものである。表紙に印刷された刊行年1918年の文字にに「3月」と付記して、「この年この月に我れ諫早農学校を卒業した。」と書き込みされているのを見ると、この本の最初の持ち主の勉学への若々しい情熱が窺えるのである。

 本の中には、あまたの書き込みがなされている。よく削った鉛筆で、動物の学名などが丁寧に書き加えられ、重要と思われたところには線が引かれ、一部には囲みも付けられている。元は白黒で印刷された本であるが、極めて繊細で美しい白黒印刷の図の一部は、色鉛筆で丁寧に彩色が施されている。本文中の諸処には著者による豊富な参考書リスト、文献リストがあるが、本の持ち主はそこに書誌事項を書き加えるにとどまらず、その後に発行された文献を書き加えている。それらの中には1950年代のものまであることから、動物学を勉強した読者の真摯な思いが感じ取れるのである。

 実は、今日の情報社会は、その持ち主が1959年(昭和29年)に長崎県立大村高等学校に教諭として勤務しており、教育功労者表彰を受けていること、さらに1967年に「長崎の動物〈第1〉」という著書を共著で出していることを教えてくれた。正否を確かめることは今では困難といわざるを得ないが、もしかしたらこの本はその持ち主の生涯を通して半世紀近く教科書として使われたものかもしれないのである。