【3】名簿 東京大学理学部動物学教室 平成7年3月刊行

 ここで、若干の寄り道をしてみたい。それは、飯島魁のところで触れた東京大学動物学教室名簿である。この名簿は、動物学教室で数年おきに作成されてきたものであるが、私の知る限りでは、手許にある平成7年に作成されたものが最後のものとなっている。名簿には、歴代教授の名前と当該年度までに所属した全学生の名前と現所属が記されている。前述の通り、その卒業生のリストの一番先頭に記されている名前が飯島魁ということである。
 最初のページに”旧教授”が整理されていて、初代はE.S. Morse, 2代はC. O. Whitman、3代目が箕作佳吉、第4代に前述の通り飯島魁の名前が記されている。その後、平成7年までに24名の教授がリストされており、その当時は8名が存命だったが、そのうち5名の方が亡くなり、平成の最後の4月現在は3名の方がご存命である。現職教員は最後のページに23名が記されているが、そのうち、現在、東京大学に在籍しているのは5名である。
 卒業生は卒業年度別に整理されている。他大学を卒業して大学院の動物学課程に進学した学生の名前も、同じ年次の東京大学卒業生とともに漏れなく記載されているので、厳密な意味で同期卒業、あるいは修了という整理ではない。袖振り合うも多生の縁ということになる。

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 明治14年には、飯島を含む3名が卒業しているが、その後、15年、18年、19年、20年(選科)、21年には各1名の卒業生があっただけであり、今日の大学制度とは大きな違いがあることが見て取れる。その後大正10年までは毎年1~5名程度の卒業であるが、それ以降、昭和60年くらいまでは5~10名程度の学生がコンスタントに卒業していることが分かる。卒業生の推移から、大正8年大学令の頃に旧制度の大学のあり方が確定したこと、そして少なくとも動物学教室においては、その規模での教育が新制大学発足の制度改革を越えて継続していたことが推測されるのである。

 名簿から動物学関連分野で活躍した方々の名前を拾うことは容易であるが、それ以外にも興味深い人々を見付けることが出来る。大正8年卒業生には森鴎外の長男である森於菟の名前があるが、少なくともWikipediaの森於菟のところの記述には東京帝国大学理学部動物学教室への言及はない。
 大正9年には山本宣治が卒業している。山本宣治は「イモリの精子発達」という卒業研究を行った後、ふるさとの京都に戻って、同志社大学京都帝国大学で教鞭を執ったが、産児制限性教育の普及活動に舵を切った後、社会活動に関わり、最後は労農党の衆議院議員として活躍中に、右翼に暗殺されることになる。
 その他、処々に、鷹司、松平、清棲(真田)、黒田、浅野、毛利などやんごとなき名字が散見される。私が、教養学部時代からお教えを頂いた先生のお一人も、ふとした機会があって調べてみると、黒羽藩の殿様に繋がる家系であることを発見した。その意味では、直ちに名字からは分からない人たちの中にも、戦前の華族に繋がる方々は、もっといるのかもしれない。動物学が良い意味で「殿様の学問」であった時代だったのかもしれない。

 昭和60年(1980年代半ば)を過ぎると、同一卒業年次の学生数が増加を始める。それでも、昭和の間は15名程度であるが、平成(1990年代)になると20名を超えるようになり、名簿の最終年である平成6年の卒業生は29名となっている。29名のうちの17名は大学院で動物学教室に参加した人たちである。1990年代の大学院重点化に伴う規模拡大がつぶさに見て取れるのが興味深い。
 名簿で、卒業生たちのその後を辿ってみた。1960年代の卒業生80名のうち、広義の生物系アカデミックポストに就いているのは68名(85%)、1970年代では95名中80名(84%)であるのに対して、1980年代になると、卒業生が114名に増え、アカデミックポストに在籍するのは1995年段階で60名(53%)となっている。大学院拡大に応じたアカデミックポストの増加はなかったのだから、当然といえば当然であるが、名簿からも状況の変化が如実に分かるのである。その意味では、90年代の卒業生がどのようになっているかは興味深いが、少なくともこの名簿では分からない。

 私は1974年卒業 であるが、教養学部から本郷の理学部動物学教室に進学した際、8名の学生はその3倍以上の先生方に迎えられた。そこで行われた教育は、今振り返ると、文字通りの後継者(動物学者)養成を目的とするものであった。私は、正直なところ、動物学者になると明確に心を決めて進学先を選んだわけではなかったが、特段の考えの下でそのベルトコンベヤーを降りることを決断しない限り、その道は博士課程まで続いており、その先には動物学の世界で生きてい行くことが予定されていたのである。大学院拡大の時代、後継者としての受け入れ枠が必ずしも十分でなくなることが明かだった時代に、ベルトコンベアー(大学院教育システム)にどのような変更が加えられたのか、私には定かではないが、今日の若手研究者がおかれている厳しい状況を出来させた要因を考える上で、重要な観点になり得るように思われる。

 その流れに身を任せた私が幸せだったのか、他にもっと面白い人生に繋がる道があったのかは、今となっては計り知れないことである。ただ、少なくとも、東京大学理学部動物学教室では、1910年代後半から1970年代くらいまでの間、後継者養成型の理学系専門教育が連綿として受け継がれてきていたことが一冊の名簿から読み取れるのは面白い。また、その安定した後継者養成型教育が始まる年である1918年に動物學提要が発刊されたのが、単なる偶然なのかどうか、ふと気になった。

【2】 著者の飯島 魁という人


 

 飯島魁という人のことは、本当はよく知らない。不勉強な私は、飯島の論文を直接読む経験も無かったし、ここで飯島のことを書くにあたって、その事績をきちんと調べることもしていない。ただ、その名前は私が駆け出しの動物学研究者になったころから知っていたような気がする。
 手元に、東京大学理学部動物学教室の卒業生名簿(平成7年3月刊行)があるが、飯島魁の名前は明治14年1881年)の最初の卒業生として記されている。同じ時に、岩川友太郎、佐々木忠次郎の名前が挙げられている。岩川友太郎はその後東京高等師範、女子師範で教鞭を執り、日本の貝類の分類の基礎を築いたとされている。また、佐々木忠次郎は東京大学農学部教授として、日本の蚕学の開拓者とされる。いずれにせよ、我が国で最初に動物学の勉強を始めた人の一人である。
 卒業生名簿の最初のページには歴代教授がリストされており、その初代教授がモースである。ちなみに、モースの後、第2代教授がホイットマン、第3代がアメリカ・ヨーロッパで学んで帰国した箕作佳吉で、第4代教授として飯島の名が記されている。日本で動物学を学び始めて、教授となった最初の人物ということになる。
 

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  初代教授モースの名を私が初めて知ったのは、動物学者というより、大森貝塚の発見者としてである。小学生の頃、大田区に住んでいた私は、普段、京浜東北線大森駅で乗り降りしていたが、大森駅を発した上り電車の左側に、「大森貝塚」の所在を示す大きな石碑が2つあるのを見ていた。そして、それが日本で始めて発見された貝塚である大森貝塚の所在を示す石であり、それを発見したのがお雇い外人の一人であったモースだったことを知ったのは、もしかしたら小学校の郷土の歴史を知る授業の中だったのかもしれない。その当時、将来、自分が動物学を学ぶことになることは全く想定しておらず、線路際の崖に貝殻が露出していることに気付いたモースという人が日本で初めての貝塚を見付けたという話が頭に刻まれただけだった。
 モースは腕足類(シャミセンガイ)の調査で来日したという。今でも、有明海では腕足類が比較的豊富に収穫でき、「女冠者」と呼ばれて食用に供されているが、当時は東京湾相模湾でも豊富に見られたらしい。その調査を目的に日本に来たモースが、動物学教室の初代の教授を引き受けることになったが、彼が、文化面を含めて極めて幅広い関心を持つ人物であったこと、また、当時はまだまだ定説とは言い難かった進化論を広めたこと、そして、比較解剖を中心として実地に学ぶ動物学を原点に据えたことを見ると、彼が我が国の動物学の創始者となったことは、幸いなことだったのかもしれない。

 飯島は、1861年の生まれ、1877年に来日したモースに1878年から師事し、1879年からは第2代教授ホイットマンの指導を受けて1881年理学部生物学科を卒業している。ホイットマンの指導下でヒルの発生の研究を行ったとされるが、卒業後、生物学科の准助教授となった。動物学教室の第1期生は飯島を含め3名であった。佐々木忠次郎は農学校(後に帝国大学農科大学教授)に、岩川友太郎は東京師範学校教諭、第2期生の石川千代松は1882年に動物学科助教授となっている。1982年にアメリカから帰ってきた箕作佳吉が第3代教授になるが、飯島は1882年~85年ドイツのロイカルトの下に留学し、帰国後1886年に弱冠25歳で第4代教授となり、箕作とともに文字通り我が国の動物学を構築した。留学先では、プラナリアの構造と発生の研究を行い、学位を得ているが、その後、寄生生物(吸虫と条虫)、海綿、環形動物ヒル)、カタツムリ、さらに鳥類などの研究に業績を残したとある。

 私が「イイジマ」の名を知ったのは、おそらくは、毒を持つことで有名なイイジマフクロウニからかもしれない。箕作、飯島の尽力で三崎に設置された神奈川県三崎市油壺の東京大学臨海実験所で、何となく柔らかそうなそのウニの姿を不思議なものとして眺めた記憶がある。
 実は、私は、この大先輩を「イイジマサキガケ」という名前で記憶していた。動物學提要に記されている英文の著者名はIsaoであり、多くの書物でも当然のことながら「いさお」である。なぜ、私がこの先輩の名前を「さきがけ」と誤って記憶したのかは分からないが、その立ち位置を考えると、さきがけ=先駆けという呼び方は極めて相応しいもののように思える。

【1】 私の手許の「動物學提要」

 今日、「動物学提要」という本を知っている人はどれくらいいるのだろうか。大正年代に飯島勲氏により著された動物学の教科書である。今からおおよそ100年前の動物学の教科書を眺めることにどれほどの意味があるのか、今、生物学を学ぶ人たちはもはや殆ど無用のものと思われるに違いない。ただ、私が動物学を学び始めて早くも半世紀近く経過したが、その間に動物学関係の双書の類いが何度か、分担執筆、分冊の形で出版されているものの、一人の人が書いた「動物学」の本格的な教科書に出会った覚えはない。学問の拡大と分岐が進んだ今日、分野別に本が執筆されることは当然の趨勢であるが、人生の多くの部分を動物学に関わって過ごしてきた我が身を振り返る時、過去に動物学と題した大部の本を一人の碩学が書き上げていることの意味を振り返ってみたいという思いが、偶然の機会から私の書棚に収納されていたこの本を取り出させたのである。

 私の手元にある「動物学提要」、随分と草臥れており、補修したテープも朽ちて、縦横の繊維のみとなっている。その本は、新潟大学教養部から理学部を通しての私の先輩教員が、若い頃、神田の古本屋街で見つけて購入されたものである。教授室の書棚にそれを見つけた私は、素朴な好奇心から拝借し、その後、その先生の退官時に結局いただくことになった。 

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 奥付の裏ページの書き込みによると、この本の持ち主は大正7年(1918年)に諫早農学校を卒業し、大正9年1920年)に現在の長崎県諫早市にある喜々津小学校の若い教員(恐らくは代用教員)だったと思われる。その人が、中学校教員検定試験(植物科)の受験勉強のために購入したことが記されている。この動物学提要は1920年発行の4版であるが、初版は1918年に刊行されたものである。表紙に印刷された刊行年1918年の文字にに「3月」と付記して、「この年この月に我れ諫早農学校を卒業した。」と書き込みされているのを見ると、この本の最初の持ち主の勉学への若々しい情熱が窺えるのである。

 本の中には、あまたの書き込みがなされている。よく削った鉛筆で、動物の学名などが丁寧に書き加えられ、重要と思われたところには線が引かれ、一部には囲みも付けられている。元は白黒で印刷された本であるが、極めて繊細で美しい白黒印刷の図の一部は、色鉛筆で丁寧に彩色が施されている。本文中の諸処には著者による豊富な参考書リスト、文献リストがあるが、本の持ち主はそこに書誌事項を書き加えるにとどまらず、その後に発行された文献を書き加えている。それらの中には1950年代のものまであることから、動物学を勉強した読者の真摯な思いが感じ取れるのである。

 実は、今日の情報社会は、その持ち主が1959年(昭和29年)に長崎県立大村高等学校に教諭として勤務しており、教育功労者表彰を受けていること、さらに1967年に「長崎の動物〈第1〉」という著書を共著で出していることを教えてくれた。正否を確かめることは今では困難といわざるを得ないが、もしかしたらこの本はその持ち主の生涯を通して半世紀近く教科書として使われたものかもしれないのである。

1.猫と教養

 「我輩は猫である」というあまり小説らしくない小説を知らない日本人は多くないと思われるが、今日、それを読んだ人もそれほど多くないようである。私が初めてこの本に接したのは中学生時代、当時の風潮として”大人になるまでに当然目にしておくべき古典”を読むことは仲間内のある種の義務であったことから、書店の棚で文庫本を見付け、読んだのが最初だったが、正直なところ、決して面白いものではなかった記憶がある。「坊ちゃん」のほうが、若い新米教師を主人公とした青春小説として面白く読めた記憶がある。

 しかし、成人後、ふとした機会に再度手にした「猫」には、思わず声を出して笑ってしまう文章がたくさんあって、その価値を再認識させられることになったのである。さらに、高齢者と呼ばれる年代になってからは、眠気が来るまでの間に手にする本としてベッドに持ち込み、改めて新鮮な愉しみを味わうことになった。この時は、処々に箴言ともいえる文章を発見し、それが決して今日に通用しないものでないことに気付き、漱石(実は、彼は49年の人生であったので、今の私から見るとずいぶん若い)の見識に驚かされたのである。「坊ちゃん」にも年齢を重ねてからの読み方もあるのだろうが、不幸にして、それを試したことはない。 

 「猫」に限らず、漱石の小説を読むとき、我々は該博な「教養」を求められていることにある種の圧迫感すら感じる。「草枕」の冒頭の有名な部分を越えて読み進むために、私はそこに出てくる多くの人名などを敢えて無視しなければとても前に進めなかった。その一人一人の事績を確認することは、確かに著者の意図をきちんと受け取るためには必要なことなのだろうが、そんなことをしていては、「草枕」を小説として読むことは殆ど不可能になるのである。

 私は大学教育に約40年携わったが、最初に所属した部局は教養部だった。昭和22年に発足した新制大学は教養課程と専門課程の2本立ての課程から構成されていた。旧制帝国大学はそもそも、“社会で活躍する専門家養成を担うことができる人材”を養成するために設けられたものであり、そこでの教育がもっぱら専門教育であるのは当然のことである。しかも、旧制大学の専門教育は、専門分野の学問を伝授するものとして設計されており、旧制中学卒業生が持つ学習成果を踏まえて設計された教育課程と言えるものではなかったことから、専門教育を受けるために必要な知識・技能を涵養するために、旧制高校(あるいは予科)という制度が用意されたのは必然的なことだったのである。

 戦後、旧制大学から新制大学に移行する際に、旧制高校の考え方とアメリカのリベラルアーツカレッジの考え方を折衷したものとして教養課程という制度が作られた。私は、その教養課程の一般教育科目の生物学を担当する教養部教員として、大学教員としてのキャリアをスタートした。漱石の小説をきちんと読むために必要な知識と技能を「漱石のための教養」と呼ぶとすると、教育制度設計上からは、教養課程で養おうとしていたものは「専門教育のための教養」とでもいうべきものであったはずである。教養という言葉の多義性から、また、専門課程の基礎として本当に必要なものは何かという点の議論が十分行われなかった結果として、「教養課程」が「専門課程に対置された教養課程」と理解されるようになったのは、予期せぬ不幸と言わざるを得ない。 

 今から、四半世紀くらい前に、新制大学の規模拡大とそれに伴う人材育成目的の多様化圧力の下で、教養課程と専門課程の区分が廃止され、全国の教養部という組織は廃止された。その際に、従来型の専門教育でもなく一般教育でもない4年間の学部教育を通した4年間の“有機的一貫教育”を創造することが求められたのであるが、組織として廃止されたものが教養部であったことから、ユニバーサル化した大学の多様な専門教育についての概念整理が不十分なまま、専門学部教育そのものの改革が進まず、大学が、方向性のはっきりしない”改革”の波の中で浮動しつづけることとなった。

 漱石の小説を十分に味わう(専門教育を受ける)ために必要な予備知識という観点で考えると、「教養」(予備知識・能力)は必要に違いない。また、そもそも多義的な意味を持つ「教養」の重要性を否定する勇気を持つことは難しいし、成金さんと流れ者が跋扈する昨今の社会情勢を見ると、いろいろな言葉で表現されるにせよ、誰もが教養の必要性を強調したくなるだろう。

 漱石にとってはおそらく「教養」というような感覚はなかったに違いない。漱石に自らの教養とは?という問いを発しても答えはなかっただろうが、敢えて言えば、伝統の漢籍の素養を答えたかもしれない。彼は、当然のことのように漢詩を作り、その素養に留学経験を含め膨らませたものを踏まえて、淡々と様々なことを語ったのだろうと思われるが、そこで、読み手が、自らの教養が問われるように感じるのは興味深いことである。